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ガバナンス

Vol.156 人材への投資

ビズサプリの辻です。

元首相が選挙演説中に白公衆の面前で暗殺されるというとんでもない事件が起きました。治安が良いといわれる我が国で、白昼の拳銃による暗殺事件に衝撃を受けた方も多かったと思います。この治安の良さによる油断で警備に問題があったのではないか、という声も多く聞かれます。もちろん結果論にはなるのですが、問題がなかったとはいえないはずです。起きてしまった事は戻せないわけですから、事件が起きた背景・根本原因・再発防止策を様々な観点から検証していくことは必要となるでしょう。

また、今回の事件に関する一連の報道の中で「無敵の人」というインターネットスラングを知りました。「無敵の人」とは、犯罪を起こしても社会的な地位や家族など失うものがない人という意味で、2008年頃からインターネットの中では使われてきた俗語のようです。特に40代~50代前半の世代はバブル崩壊後の就職氷河期で、このような立場に陥ってしまっている人が相当数いるはず、とのことでした。「無敵の人」は、捕まることを厭わないため、犯罪抑制力が極めて弱く、凶悪犯罪を起こしやすいとかねてから指摘されていたそうです。確かに今回の犯人も現在は無職で一人暮らしということでこれに当てはまるということになるのでしょう。大阪の診療内科や京都のアニメーション制作会社で起きた放火事件、少し前になりますが秋葉原で起きた無差別通り魔事件も同じような境遇の人の犯行だという分析がされていました。

数件の事件を取り上げて「世代のせい」と一括りにしてしまうのは極端だとは思うものの、確かに40代から50代前半の世代は、就職氷河期にあたり、なかなか希望をするような就職ができなかった世代ではありました。当時は新卒一括採用が主流だったこと、終身雇用が前提で人材の流動性が低かったことから、いったん正社員になれないとなかなか次の活躍の場を見つけることが難しい状況でもあり、実際に、この世代の多くの方が、不本意ながら不安定な仕事に就いている、あるいは無業の状況にあると言われています。かつては「自己責任」といった新自由主義的な考え方でこの問題自体が認識されていませんでした。
最近では、このような問題は個人や家族だけの問題でなく、社会全体の問題として受け止めるべきであり、国の将来に関わる重要な課題として捉えられており、様々な支援策が進められています。厚生労働省でも「就職氷河期の方々への支援」という特設のホームページや動画、パンフレットなどを作成し、様々な支援プログラムを実施しています。

【参考】
就職氷河期の方々への支援 https://www.mhlw.go.jp/shushoku_hyogaki_shien/
動画 https://www.mhlw.go.jp/shushoku_hyogaki_shien/download/

多くの企業で人手不足が経営課題となっている中、この世代が活躍できる場が多くあるのではないでしょうか。

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■ 1.安い日本の弊害

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就職氷河期への支援に関わらず、わが国において多くの企業が、人件費を「固定コスト」と捉え、人材への投資を十分にしてきませんでした。また、終身雇用が前提で、景気の変動があっても「雇用の安定」を最優先に考えてきました。
雇用の安定自体が悪いことではないですが、雇用を確保することで生産性が上がらず、生産性が上がらないから利益率が上がらず賃金が上がらないといった悪いスパイラルに陥っているように思います。生産性が上がらないまま、その生産性に見合った安い労働力に甘えていたのでしょう。この結果、一人当たりの賃金は最近25年間ほぼ横ばいで推移しています。賃金が伸びていないのは先進国の間ではイタリアと日本ぐらいです。賃金の伸び率だけではなく、賃金の絶対額も諸外国に比較すると安くなっていて、一人当たり賃金はOECD平均の約5%、全体で24位(加盟国は38か国)と毎年その順位をジリジリ落としています。

また、安い労働力を求めた結果、非正規雇用者が増え、「人材の使い捨て」のような状況が生じました。雇用の安定が最優先とされる中、非正規雇用という雇用における「負け組」と新卒で正社員として就職した「勝ち組」の差が大きく、前述の「無敵の人」を作り出してしまったのかもしれません。

このような状況を見てとってか、日本財団が行った『18歳意識調査』においては、「自分の国の将来についてどう思っていますか」「10年後、自国の競争力は、他国と比べてどうなっていると思いますか。」という問いに対して、調査した6か国(中国、インド、アメリカ、イギリス、韓国、日本)で圧倒的に最下位でした。日本の若者からも見放されてしまっている由々しき状況です。
日本の大学の順位もジリジリ下がる中、優秀な学生が海外に活躍の場を求めて日本を見限るということも生じてくるでしょう。『学位を持つ若者が国外に逃げ出す社会が成功する可能性はほとんどない』(エマニュエル・トッド著 第三次世界大戦はもう始まっている)のです。

ちなみに、今回の件とは関係がないのですが、ジェンダーギャップ、従業員エンゲージメント、幸福度などジリジリと順位を落としている統計が多い気がします。色々変化が多い中、相対的にどんどん追い抜かされている感じを受けます。

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■ 2.人材版伊藤レポートの公表

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このような状況は、企業の持続的な成長にとっても良いわけがなく、また企業が弱体化していくことは国にとっても由々しきことです。このため、経済産業省を中心に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」で人的資本に対する考え方が整理され、その成果として2020 年9月「人材版伊藤レポート」が公表されました。この中で人材に対する考え方として、『企業は様々な経営上の課題に直面しているが、これらの課題は、人材面での課題と表裏一体であり、スピーディーな対応が不可欠。このため、各社がそれぞれ企業理念や存在意義(パーパス)まで立ち戻り、持続的な企業価値の向上に向け、人材戦略を変革させる必要性』があるとしています。

また、人的資本経営をどのように実践に移していくかのアイディアの提示として2022年5月に「人材版伊藤レポート2.0」も公表されています。この中で、『人材は「管理」の対象ではなく、その価値が伸び縮みする「資本」なのである。企業側が適切な機会や環境を提供すれば人材価値は上昇し、放置すれば価値が縮減してしまう。』としています。人材を活かして価値を生み出すものにできるかどうかは企業次第というわけです。

加えて、『人的資本情報の開示に向けた国内外の環境整備の動きが進む中で、人的資本経営を本当の意味で実現させていくには、「戦略と連動した人材戦略をどう実践するか」と、「情報をどう可視化し、投資家に伝えていくか」の両輪での取組が重要となる。』ということも記載されており、実践だけではなく、「可視化して説明をする」ことも重要な課題と捉えています。人材価値が上昇しているか縮減しているかは企業の将来価値に大きく影響を与えることになりますから、その考え方や実績は投資家にとっても有用な情報となります。したがって、しっかり開示を求められるということになります。

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■ 3.人的資本にかかる開示について

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人的資本についての開示については、内閣官房の「非財務情報可視化研究会」、経済産業省の「非財務情報の開示指針研究会」、金融庁の金融審議会「ディクロージャーワーキング・グループ(DWG)」等において、開示に当たっての考え方や開示の枠組みが議論されています。このうち、DWGでは、企業経営や投資家の投資判断におけるサステナビリティの重要性の急速な高まりを受け、海外からの投資を呼び込む上でもこの分野の開示の充実は欠かせないとのことで、

1.サステナビリティに関する企業の取組の開示
2.コーポレート・ガバナンスに関する開示
3.四半期開示をはじめとする情報開示の頻度・タイミング(前回メルマガ参照)
4.その他の開示に関する個別事項

というテーマで審議が行われた。人的資本に関する開示は、この中で1.サステナビリティに関する企業の取組の開示の中で下記のように記載されている。

(1)中長期的な企業価値向上における人材戦略の重要性を踏まえた「人材育成方針」(多様性の確保を含む)や「社内環境整備方針」について、有価証券報告書のサステナビリティ情報の「記載欄」の「戦略」の枠の開示項目とする
(2)それぞれの企業の事情に応じ、上記の「方針」と整合的で測定可能な指標(インプ ット、アウトカム等)の設定、その目標及び進捗状況について、同「記載欄」の「指標と目標」の枠の開示項目とする
(3)女性管理職比率、男性の育児休業取得率、男女間賃金格差について、中長期的な企業価値判断に必要な項目として、有価証券報告書の「従業員の状況」の中の開示項目とする

なお、(3)については、有価証券報告書による開示以外に、女性活躍推進法の省令改正が予定されており、上場会社に限らず常時雇用労働者が301名以上の企業において男女の賃金格差について開示が必要になります。この改正法令は2022年7月に施行されます。企業は事業年度終了後概ね3か月以内に公表が求められることになるので、3月決算であれば2023年6月頃から開示が行われていくことになります。

なお、厚生労働省の2021年の調査によると、女性の平均賃金は月25万3600円で、男性の賃金を100とした場合、75.2%とのことです。この開示が行われると、少しでも格差をなくしていかないと「選ばれない会社」となってしまう可能性も多いにあるわけで、開示を契機に様々な施策が実施されていくことが望まれます。

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■ 4.実施→開示

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伊藤レポートといえば、ガバナンス改革の先陣を切ったレポートとして「ROE 8%」が話題になりました。コーポレート・ガバナンスについても「ガバナンスコード」を基にコーポレート・ガバナンス報告書で開示をさせることで、上場会社には半ば強制的にガバナンス強化が図られてきました。人的資本に関しても企業任せでは進まないということで、サステナビリティに関する開示が制度化され、その開示に耐えうる人的資本への投資を促すという官製主導で進められていくように見えます。
企業の方とお話しをしていると、「開示内容が〇〇だから何をしなければならない」という思考回路がすっかり身についてしまっていて、「自分の会社であれば何をすべきか」とい観点がどうしても欠けているように思います。

人がいなければ組織になりません。そして、その人が企業価値の向上を支える原動力です。その人的資本をどのように生かし、価値を上げていくか、人的資本に関する方針やKPIについて他社事例をなぞることなく自分たちで考えていっていただきたいと思います。開示はあくまでもその先にあるものだと思います。

本日も【ビズサプリ通信】をお読みいただき、ありがとうございました。

カテゴリー
会計
内部統制
ガバナンス
不正
IT
その他
執筆者
辻 さちえ
三木 孝則
庄村 裕​
花房 幸範​
久保 惠一​​
泉 光一郎

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